てくてくハイク 2017-6-11

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恩智左近満一は楠木正成公八臣の

一人で恩智の豪士墓は御廟と呼ばれ

思智城跡を望んで建碑さる

この現在位置より東方四00mの高台に

大樹を傘に廟あり左近満一ここに眠る


恩智の桜(九桜)一株に九本幹が出て

桜が咲き人集まりて九桜の桜と名付く

恩智城跡に桜を植え九桜の名を今に残す

城跡の桜は現位置より東方五00mの高台にあり

見事の一言 る眼下の眺めも格別である
 

 
 
 
恩智駅 駅近くにある
恩智左近、恩智の桜の
説明版 




















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恩智石器時代遺跡 
 この地、天王の森は恩智神社のお旅所でこの森を中心として
東高野街道から恩智川に至る付近一帯は府下でも有名な弥生時代
の遺跡で大阪府の建てた碑がある。近年縄文式土器も出土している。
 今日まで地下およそ三メートルの辺から種々の石器土器が出土し、
またこの斜面から石鏃が露出した。
【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・
八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】





















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恩智左近の墓  道標(東高野街道沿い)   指定樹木 くすの木
恩智左近満一は恩智神社の社家の出で、この地の豪族として恩智城を築き、
楠木正成方に味方した八臣の一人である。 
湊川の戦の後は、その子正行を助けて南朝方を守ったが不幸にして延元二年(一三三七)七月熱病のため急死した。
 傍の墓碑十六基は明治十年の西南戦争に官軍として従軍し、
戦死した中河内近在の人々の墓である。
【出典:『史跡の道・説明石板』
(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1980年)】
*恩智左近の出身地などについてはいくつかの説があります  






















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恩智城跡 
南高安小学校(旧恩智小学校)発祥の地
 旧恩智小学校 校門  恩智城跡へ
恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。
自然の高地を利用した城郭で高安連峰との間に堀をめくらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。
堀の中にかつては小島があったがそれはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸の址という。
正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。
学制領布のときここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られている。
【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾教育委員会、1980年)】  





















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 寿福山 梅岩寺  梅岩寺へ 
梅岩寺の由来

 聖徳太子が十四才のとき( 587年)崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏とが争いを起こしました。

聖徳太子は幼時より深く仏教を尊崇しておられ少年の身で参戦されました。

戦いは初め蘇我氏に不利でしたが太子は山中を捜し、勝軍木といわれるヌルデの木を伐り、その木で

四天王像を刻んで「もし戦いに勝つことができましたら、後日四天王の寺塔を建てましょう」と祈り、

ついに物部氏を亡ぼして仏教が日本に広まる機縁をつくられたのです。

後日、太子は大阪に四天王寺を建てられるのですが、このヌルデの木の生えていたのがこの地で、ここ

に観音様を祀られたのが梅岩寺のはじまりです。

その後、徳川四代将軍家綱のとき、宇治に黄檗山万福寺をひらいた中国の僧、隠元禅師がここに巡拝

され、本尊の観音様の霊験に深く感じ、みずから筆を染めて「寿福山」の山号額をつくり、弟子の木庵

禅師に命じて復興させられ、以来、禅宗の寺として今日に及んでいます。


  
 
 梅岩寺の由来


























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岩戸神社  この辺り社寺が混在してる 
 境内の境界線もはっきりせず、参道石段の脇から互いの境内を行き来できる状態であるため、
事情のわからない者から見ると別々の神社であることに気が付き難い。























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地すべり公園(昼食)
     
 市民の森は八尾市黒谷五丁目に位置する樹に囲まれた自然豊かな公園です。
公園内には東屋とテーブルがあり、休憩スペースとしてご利用いただけます。
また、山の傾斜を利用した滑り台が2つ設置されています。
デッキ部分からは八尾市内の景色を見渡すことが出来ます。
























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山本駅  権現社  恩智川
   
権現社の沿革:神社明細書には「慶長年間(一五九六~一六一四)に、熊野権現を勧請した」と書かれている。
寛政二年(一七九〇)意満寺の南西端にあった愛宕神社を合祀した。鎮座地 当初は、黒谷一〇二一番地 山頂に近い常川(伝承)。
その後、黒谷一一四二番地…現在地の南東 約一〇〇メートルに遷座。昭和三年(一九二八)十月三日 現在地に遷座。
昭和十五年(一九四〇)境内を東部に大拡張(約五倍に)して神殿 拝殿 玉垣などを建設、神社の様式を整えた。
昭和六二年(一九八七)神殿を改修、境内を東部に拡張した。
境内にある古い灯籠 南部にある一基は元禄十三年(1700) 拝殿前の二基は宝暦二年(1752)【出典:説明石板』(1987年)】 
























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